平成最後の日 平成はまさしく私にとってSONYな時代でした。

平成最後。
私が社会に出たのは平成2年だったでしょうか?
某3流高校を底辺で卒業し、それで地元のカメラ販売店に入社→26年間 勤めたでしょうか。
そのカメラ店がソニーショップでもあった事から「SONY」というメーカーさんに携わってきました。
携わったと書くと格好良いですが、要は販売をしてきたという事ですね。
ソニーショップでしたので、シロモノ家電と言う物はほぼ扱った事がありませんでした。
ですので、家電=SONYと言うのが私の基本です。 今でもそうです。
フジクラデンキに入社してからは大パナソニックさんを扱うようになり、
ソニーとパナソニックという、家電2大メーカーと言って良いですよね、色々と勉強させて頂きました。
本当に色んなことを学ばせて頂きました。
私個人の2社に対する気持ちを一言で表現させていただくと、
ソニー → 大好きなメーカー というかもはや DNA
パナソニック → とにかくすごいメーカー
と、こんな感じです。
SONYを販売する中で、本当に色んな経験をさせていただきました。
商品について、私が主に取り組んできた物をピックアップするとすれば、
①ビデオカメラ
vc.jpg
カメラ販売店のお仕事の中ではとにかくビデオカメラを扱いました。
途中からデジタルカメラと言う物が世に出て、そちらへと移り変わってきました。
CCD-TR55 浅野温子さんがCMに出ていたパスポートサイズとうたったモデル。
私が社会に出た時、姉が丁度結婚するタイミングだったので、うちの両親が私から買った、
いわば私が初めて販売したビデオカメラがそれでした。
8㎜ →Hi8 → DV → メモリーモデルへ 大きく変化していきました。
②パソコン
カメラを販売している中で、だんだんとパソコンと言う物が近い存在になってきました。
デジタルカメラを販売すると当時は「パソコン接続キット」というアクセサリーが出てきて、
まだSONYとしてはVAIOは発売していなかったのですが、これは時代の流れだと思いました。
vaio.jpg
私が最初に買ったパソコンはIBMでした。 当時はキヤノンさんが代理店をやっていました。
Windows95、一気にパソコンが普及してSONYがデスクトップPCでVAIOを発表しました。
その翌年、サブノートと銘打ってVAIO505が世に出てきた。 銀パソというジャンルを作りました。
当時、どれくらいVAIOが売れたのか。すごい逸話が数多くあります。
その一つをご紹介しましょう。
当時は月末金曜日がVAIOの発売日でした。 これが年4回。季節に1回的な感じです。
で、その2週間前くらいに一斉に注文が出来るようになるのですが、
例えば5月15日(金)AM10:00からお店が新しいVAIOを注文を出来るようになる、
そうすると、お昼過ぎには受注完了になってしまうんです。生産予定数量受注満了です。
で、そのVAIOが約2週間後の金曜日に入荷になります。
私のいた店では2tトラックで結構な台数、3~40台くらいでしょうか、持ってきてくれた記憶があります。
それが、金・土・日で全部売れてしまうんです。
ソッチのモデルは無いんですがコッチのモデルはあります。→ じゃあそれで良い、みたいな。
本当に今では考えられない程 売れたんです。
③テレビ
TV.jpg
普通のブラウン管、4×3のブラウン管からスタートです。時折プロフィールも販売しました。
当時、某メーカーさんのテレビの開発設計をしていた会社さんがお客様にありまして、
SONYが新しいモデルを発売する度に、上級モデルを納めさせて頂いておりました。
そのテレビを分解して研究する訳ですよね。
当時、SONYのブラウン管(トリニトロン)は他のメーカーより2年進んでいる、と言われてました。
民生用では世界初の36インチハイビジョンテレビ、たしか230万円だったと思います。
その後、SONY発の民生用プラズマテレビ32インチ 130万だったでしょうか。
液晶テレビ最高画質のクオリア これも130万だったでしたか。
圧倒的に高画質で圧倒的に重い。。 これがSONYのテレビの特徴でした。
ブラウン管 → 平面ブラウン管 → プラズマ(一瞬) → 液晶テレビ 有機ELと。
プラズマか液晶か、SONYがテレビに悩んだ時期。 まさかテレビがSONYの重荷になるとは。
それが今ではまたしっかりとした、SONYの中でも不動の位置に。家電の花形はやはりテレビです。
④デジタルカメラ
dsc.jpg
マビカからのスタートです。 サイバーショットの前身となります。
3.5インチフロッピーを使ったFDマビカなど。 フロッピーディスクが大容量と言われていた時代です。
その後、サイバーショットが世に出ました。 DSC-F1です。 35万画素でした。
当時はカシオQV-10と言うモデルが世を席巻していて私も数台販売しました。
SONYの方から、サイバーショット、DSC-F1がカメラとして(銀塩カメラの)代わりになるか
カメラ販売店としての意見を聴きたい、なんて言われた事がありましたね。 なつかしい。
ちなみに私がそれに対して、どのような講釈をぶったのかは忘れました(笑
画素数が600万画素に突入した頃です、もうデジタルで良いと思ったのは。
1000万画素を超えた頃です、銀塩が終わったな、と思ったのは。
キヤノン、ニコンの後を追い、ミノルタがαスウィートD、α7Dを発売しました。しかしほどなく終了。
ミノルタがデジタル一眼から撤退、そして「α」を三顧の礼をもって譲り受け今に至る。
ブランド価値を落すことなくαを受け継いでいくその志。 それが本気だったことが今証明されています。
SONYがミラーレスフルサイズの初号機に「α7」のネーミングを冠したのはミノルタに対する礼、
私は勝手ながらそのように思っています。 そう、いつの時代も「α」は「7」が主であります。
余談ですが、ほんの数年でなぜあれほどカメラが銀塩からデジタルにシフトしたと思われますか?
時代の流れと言えばそれまでだろうと思います、しかし私の持論はこうです。
キヤノン、ニコン、ミノルタ、ペンタックス、オリンパス この辺りのカメラメーカー、
新しいカメラを開発し、作っても作っても作っても儲からなくなってしまっていたと思います。
例えばキヤノンであってもカメラの部門が全体の足を引っ張っている時期が有りました。
例えばAPSというフィルムの形がありました。フィルムのパトローネに小さいチップを付けてます。
そのチップで、撮影枚数情報や日付情報が管理できたりしました。
APSでキヤノンはIXYというカメラを作り、一つの流れを作りました。しかしAPSはほどなく下火に。
で、結局の所 潤ったのは富士フイルムだけ。巨額の研究開発費はそこに集約されてしまった。
なんといってもDPE、現像・プリントは儲かります。今となっては儲かりましたと言うべきでしょうが。
当時は、富士・コダック・コニカのフイルムメーカー3社の戦いは勝負ついてましたから。
日本国内では圧倒的に富士フイルムの一人勝ちになってましたので。
銀塩(フイルムカメラ)はフイルムに光を写し込む箱に過ぎませんでした。
カメラメーカーとしては、正直面白くなかったと思います。言わば富士フイルムを儲けさせる仕組み。
ですので、カメラだけで儲かる仕組みを作る、→ の結果だと、それが大きいと思います。
私がSONYと一緒に平成を過ごしてきたというのは商品はもちろんですが、
本当に多くのSONYな方々にお世話になってきたという事も大変大きな事です。
だいぶお立場が上に行かれて、どこかでもし会ったとしても声をかけられない様な方もいます。
以前お世話になった方が転勤され、数年たったらまた先方様は違う立場でお世話になる事も。
しかし、こういうのは本当にうれしい事です。
3流高校を下の方で卒業した私が、大SONYの「長」が付くお立場の方と話ができ、時に冗談も言える。
平成はまさしく私にとってSONYな時代だった、と今つくづく思っている所です。
そして、もちろんSONYが好きなお客さま方と。
さて、令和はいったいどのような時代になっていくのでしょうか。
(文中 メーカー様のお名前は敬称略にて失礼いたしました)
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